文化財・寺宝

山門をくぐると紅葉や銀杏など花木に恵まれた境内が広がり、正面に本堂が静かに佇む。

阿弥陀三尊像(県指定重要文化財)

中尊の阿弥陀如来像は平安後期から鎌倉時代初期の作とされ、当代を代表する定朝様式の傑作で、左右に脇侍する観音・勢至とともに観る者を感動させずにはおかない。来歴を知る資料は少ないが、制作年代当時、当地方を支配していた藤原氏の流れを汲む佐貫氏の氏寺であることから、佐貫氏を大檀那として制作された可能性も考えられている。寺伝では藤原秀衡の名が伝えられる。永享12年(1440)の結城合戦の折、阿弥陀堂にも火がかかったが、三尊は自ら難を逃れられたと云い、以来「堂山焼出しの弥陀」の異称も伝えられている。

阿弥陀三尊像(県指定重要文化財)

地蔵菩薩画像板碑(じぞうぼさつがぞういたび)(県指定重要文化財)

文永8年(1271)の建立で、日本最古の地蔵板碑の一つである。俗に弘法大師「爪引き地蔵」の愛称で親しまれ人々の信仰を集めてきた。鎌倉時代の石造美術品としても貴重である。

地蔵菩薩画像板碑(じぞうぼさつがぞういたび)(県指定重要文化財)

金剛・胎蔵竜王天井画

本堂内で本尊不動明王の天空を舞うかの様に描かれている70畳に及ぶ大きさの竜王画であり、日本屈指の大きさを誇る。海底から上空へ昇る胎蔵竜王と天空から降りて来る金剛竜王がア・ウンを表して参拝者を守護する。作者の故吉田左源二画伯(東京芸大名誉教授)は皇后陛下雅子さまの御印「ハマナス」や秋篠宮家の御紋「菊に栂」の制作でも知られる。

金剛・胎蔵竜王天井画

銅五種鈴(どうごしゅれい)(国指定重要文化財)

鎌倉時代の作品として推定される高さ20㎝の銅製の鈴で、華麗な蓮華唐草文を中心に連珠文・独鈷杵文・三鈷杵文が鈴身に表される。密教法具の金剛鈴として特に装飾性が強く、宝珠鈴、宝塔鈴、五鈷鈴、三鈷鈴、独鈷鈴の五種類が皆具で伝来する鎌倉時代の貴重な遺例である。荘厳な密教儀式に用いられたことが推察される。【現在非公開】

銅五種鈴(どうごしゅれい)(国指定重要文化財)

荻野吟子生家長屋門(国登録有形文化財)

荻野吟子は江戸時代末期の嘉永4年(1851)3月3日、現埼玉県熊谷市俵瀬に名主荻野綾三郎の五女として生まれ、数々の困難を乗り越えて明治18年(1885)に日本公許女医第一号となった。生家の長屋門は明治期に当寺に移築された。吟子の生家を偲ぶことのできる唯一の建築物である。

荻野吟子生家長屋門(国登録有形文化財)

光恩寺庫裏(国登録有形文化財)

慶応2年(1866)の火災で光恩寺が堂宇を失った際、これを聞いた舘林藩の家老岡谷繁実は、その門人である豪農、荒川弥五左衛門弘文に自宅の寄進を勧めたところ、弘文もこれに同意し移築されることになった(舘林叢談)。これが現在の光恩寺庫裏である。江戸期の豪農の暮らしを伝える貴重な建築物である。

光恩寺庫裏(国登録有形文化財)

梵鐘(ぼんしょう)(町指定重要文化財)

元禄16年(1703)9月に作られ、撞座に金剛界五仏の種字を配し、乳の間には梵字百字真言が見事に鋳出されている。元禄文化の一端を知る上で貴重であり、国の重要美術品とされた名鐘である。

梵鐘(ぼんしょう)(町指定重要文化財)

大雲輪請雨経(だいうんりんしょううぎょう)

紺紙金銀泥の雨ごいの経典。当山では古くから「雨ごい」が修法された。後醍醐天皇の御宇、諸国干ばつとなり、「雨ごい」の御勅願があられ、住呂が長良の湖水に祈って雨を得たことから、7百貫の朱印が下賜されたと伝わる。【現在非公開】

大雲輪請雨経(だいうんりんしょううぎょう)

赤岩堂山古墳

墳丘全長90mの大型前方後円墳で、後円部径48m前方部幅72mを測る。7世紀初頭の築造と考えられ、邑楽館林管内で最大のものである。近隣には多数の古墳群があり、当地は利根川河畔にあって古来交通の要路であったことから、古墳時代から既に繁栄した土地であったことが窺われる。

product

赤井照光 五輪塔(あかいてるみつ ごりんとう)

永享の頃、佐貫一族である舞木持広の寄騎の侍として赤井若狭守の名が見える。赤井氏は持広・若狭守没後に 舞木佐貫一族を打倒し庄頭の地位を得る。更に館林方面へ進行する拠点として青柳城を築いた。下って、15世紀半ばになると、青柳城主 赤井山城守照光が大袋城を経て、狐が恩返しに自分の尾で縄張りしたという名城尾曳城(館林城)を築き本拠とした。この頃には赤井氏が館林周辺の諸郷村の土豪を服属組織化して、軍事・政治・経済共その手中に握っていた。此に「佐貫庄」は支配者の本拠地名を冠し、「館林領」と呼ばれる様になった。照光は天文14年(1545)館林城で没するが、「赤岩山は先祖の菩提寺なれば、我が骨は堂山に葬るべし」と遺命し、光恩寺堂山乃上に葬られた。

赤井照光 五輪塔