光恩寺は、群馬県千代田町赤岩の利根川岸にある関東屈指の真言宗の古刹です。
関東91薬師霊場第40番札所
関東108地蔵尊第21番札所
北関東36不動尊霊場第11番札所
☎︎ 0276-86-2157
光恩寺は、千代田町赤岩の利根川岸にある関東屈指の真言宗の古刹です。寺伝によると、雄略天皇が穴穂宮(安康天皇)のために勅して全国に建立せられた九ケ寺の一つとされ、推古天皇11年(603)には秦河勝を勅使として仏舎利三粒が納められたと伝えられています。また同33年(625)には高麗王より大和朝廷に遣わされた僧恵灌が東国の仏法弘通の折、当地の豪族の請を受け来住し、三論を説き赤岩の光恩寺を開いたとされています(東鑑)。
のち、弘仁5年(814)(一説に大同元年806)弘法大師は諸国遊化の際当地に留まり、密教弘通の道場として当寺を再興開山せられましたが、開山に当たり自作の木彫地蔵を安置せられ、それにより「地蔵院」の院号を有している(釈祐寿集)爾来真言密教の寺院として今日に至り、現住で84代を数えます。その後、当寺は兵火に罹りその堂宇を失いますが、元亨元年(1321)後醍醐天皇は源有国を勅使として、宇都宮公綱に奉行を命じ、兵火に失われた殿堂を再建せられると共に、7百貫の朱印と「赤岩山光恩寺」の称号をも下賜されました。
当寺の最盛期は弘仁~元亨の間と云われ、僧院16坊、末寺3,000余を擁し、地方豪族の氏寺として栄えました。しかし永享12年(1440)結城合戦で殿堂は兵火に罹り悉く灰燼に帰してしまいました。慶安元年(1648)徳川家光は光恩寺に高16石8斗余の寺領を賜り、山林諸役等を免除しています。宝永年間(1704)の末寺数76ケ寺。文政13年(1830)本堂、庫裏、疱瘡神堂、仁王門まで雷火により焼失。天保14年(1843)本堂上棟。文久2年(1862)造作完了するが、慶応2年(1866)再び火災に遭いまた堂宇を失いました。
現在の本堂は明治16年に造営され、同時期に客殿、長屋門が移築されました。明治維新の寺院統廃合により末寺数26となり、その後、昭和53年に阿弥陀堂が再建され、平成に入ってからは、弘法大師堂建立、本堂竜王天井画完成、荻野吟子生家長屋門保存修理、釈迦如来涅槃堂建立がなされ、現在に至ります。
山門を入ってすぐ左手の吹き抜けのお堂に祀られ、「爪引き地蔵尊」と親しまれる。日本最古の地蔵板碑の一つで文永8年の建立。(県指定重要文化財)
地蔵菩薩板碑本堂には秘仏・本尊不動尊が安置され、正月及び春秋には御開帳祭典が行われ、お姿を参拝できる。
本堂鐘楼は堂山古墳上にあり、梵鐘は元禄16年に作られ百字真言を刻む。(重要美術品・町指定文化財)
鐘楼毎年3月28日春季不動尊大祭には、柴燈護摩を行い火渡りの荒行が行われる。
春季不動尊大祭り遠方へのお墓参りが難しい、継承者の不在などお墓の悩みは種々様々ですが、願いはただひとつ。将来を心配せずに、いつまでも供養の続く場所で眠ること。 84代続く当山の歴史は、人の変わらぬ願いを一代ー代大切に継承し続けた歴史でもあります。
鎌倉幕府に仕えた佐貫氏は、ここに極楽浄土を模した空間を築きました。現在でもその当時の阿弥陀如来が静かに瞑想を続け、人々を導いています。古より浄土への祈りが受け継がれる聖地に、おのずと開かれた墓所になります。
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